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第511号 2000(H12).10発行

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歴史の中の肥料-グアノ物語1

京都大学名誉教授
高橋 英一

”もの”の文化史

 人間は”もの”をつくる”器用な(habile)”な動物である。現生人類の先祖にHomohabilisという名がつけられているのも,このような特徴をとらえてのことだろう。人間はいろいろなものをつくりながら文化を築いてきた。これらの中には日常生活に深くとけこんでしまったが故に,その文化史的意義が忘れられてしまったものも少なくない。

 私は以前,「塩の世界史」1)と「甘さと権力」2)という本を読んだとき,食塩や砂糖のような身近な”もの”を文化史の主題に据えるという試みに興味をひかれた。そしてそれを講義に応用してみたいと思った。

肥料の文化史の試み

 50年余り前,私が学生だったころ,農芸化学科の必須科目には土壌学とともに肥料学があった。当時の肥料学は肥料の製造と施肥法が中心で,植物の栄養生理に関する部分はまだ少なかった。この肥料学は昭和30年代の中ごろから次第に植物栄養学という名前に変わっていったが,その過程で本来技術学であった肥料学は,急速に発展しつつあった理学的性格の強い植物栄養学の中に包含されてしまった。

 この木に竹を接いだような状態におかれた肥料学の部分を,いままで通りのかたちで今日の学生に講義をしても興味をもたせることは難しい。それで大幅にモデルチェンジして,肥料という存在を文化史的観点から取り上げてみてはどうかと考えた。

 すなわち肥料はどのようにして人間社会に生まれ,時代とともに変化を遂げて現在に至ったか,そして肥料は将来どうなってゆくかという問いかけを講義の中で試みた。その一部は「肥料の来た道,帰る道」(研成社 1991)として発表したが,19世紀に施肥農業が近代化を遂げた背景についてはもっと調べたいという思いがあった。

 たまたまJohn Bennet Lawes(農事試験場とリン酸肥料工業の創始者)の伝記が,Rothamsted試験場開設150年を記念して1993年に刊行された。George Vaughan Dykeの筆になる”John Lawes of Rothamsted,Pioneer of Science,Farming and Industry(HoosPress)”である。30年前Rothamstedに滞在したことのある私にとって,この本はひときわ興昧深かったので数度にわたってその紹介をした。3)

 その後また関心をそそられる本との出会いがあった。それはこれから紹介するThe Great Guano Rushという本である。

グアノラッシュとは何か

 19世紀のはじめ,ヨーロッパ人が南アメリカにグアノという肥料のあることを発見し,間もなく大量にヨーロッパヘ輸出されるようになったことは知っていた。しかしグアノが,折からアメリカで起こったゴールドラッシュと同じ様なさわぎを引き起こし,アメリカ政治史にも跡を残すに至ったことは,Jimmy M. Skaggs著の”The Great Guano Rush,Entrepreneurs and American Overseas Expansion(St. Martin’s Griffin 1994)”を読んではじめて知った。

 SkaggsはWichita State University(Kansas)の経済学の教授で,これまでに織物,家畜取引,グアノ,食肉などの”もの(商品)”を主題にした経済史の著述がある。4)

 グアノは鳥の糞である。このようなものが何故「金」と同じように人の心をひきつけ,また狂わせたのだろうか。それは政治家を巻き込み,政治スキャンダルを引き起こしただけでなく,合衆国政府をして鳥の糞をもとめて,大洋上に点在する小さな島島(多くは珊瑚礁)を片っ端から領有してゆくという海外膨張政策をとらしめるに至ったが,その事情経過は如何なるものであったのか。さらにバブルがさめたあと,これらの「領土」はどうなったのか。興味深い話が沢山この本には書かれている。

 これからその幾つかを紹介し,最後に自然界におけるリンの循環の問題について少し考察をしてみたいと思う。

ペルーグアノの由来

 ペルーの北海岸には紀元前後から7,8世紀頃まで,独特の文化をもったモチーカ(Mochica)という先住民がいた。彼らはhuanuと呼んでいるものを定期的に沖合いの島で採掘し,岩だらけの山肌につくった階段状のテラスにまいて,ジャガイモや穀物を栽培していたといわれる。

 紀元1200年頃,インカ帝国を築いたケチュア人(Quechuans)も,huanuを重用した。彼らは帝国の地域ごとに沖合いのグアノの島々を割当て,全耕作民にくまなくゆきわたるようにした。その結果十分な食糧生産が可能となり,余力を道路の建設や金の採掘などに振り向けることができた。そして1532年のスペイン人による征服までに,1000万の人口を擁するに至った。

 インカにとってこの鳥の糞は大変貴重であったので,huanuは金と並ぶ神の贈り物とされ,鳥の巣作りを妨げる者は死刑に処せされた。

 インカを征服したスペイン人達はhuano(スペイン人はそう呼んだ,英語ではguanoに転化)の効き目に驚いたが,彼らの関心は金の方にあった。それでスペインの植民地時代は専ら金の採掘が行われ,グアノの採掘は衰退していった。時がたつにつれてその影響はペルーの農業にあらわれた。17~18世紀を通じて,グアノの採掘は原住民によって時々小規模に行われるに過ぎなかった。

グアノラッシュ前夜

 有名なドイツの探検家で科学者のAlexander von Humboldtは,フランスの植物学者のAime Bonplandと共に1799年から1804年にかけて赤道アメリカ(中南米地域)の探検を行った。1802年彼らはペルーの海岸に沿った一見不毛の地に,穀物が豊かに実っているのを見た。そしてそこでは千年以上にわたってhuanoというものが施されてきたことを知った。彼らはグアノのサンプルをフランスとドイツに送って分析を依頼したが,その結果は「グアノは聖者ではないが多くの奇跡を行う」というペルーの諺を確証するものであった。

 ペルーの沖合いには南極から北上する寒流(フンボルト海流)が通っているため,プランクトンが非常に豊富である。これを求めて魚が集まり,とくにアンチョビ(カタクチイワシ)やニシンなどの豊富な漁場になっている。そしてこれらの魚を求めて何百万羽もの海鳥(海鵜,カツオドリ,カモメ,ペリカンなど)が集まり,海岸近くの岩礁に営巣するのでそこに糞が堆積することになる(乾燥気候のため糞はすぐに固化する,ちなみにリマの年間降水量は僅か三十数ミリに過ぎない)。

 このようにして海水中の窒素とリンはプランクトン,魚,海鳥によって順次濃縮され,岩礁の上にもたらされる。海鳥の糞量は,一日一羽当たり50グラム程度であるが,長い年月の間には莫大な量に達する。たとえばHnmboldtがペルーを訪れたとき,そのようなグアノの島の一つChinca島には,30メートルを越える刺激臭の強い黄色い堆積物があったという。

 スペインから独立したペルーは,1830年に農業の発展を図るためグアノを免税にした。それによって小規模の国内市場が開けたが,国外ではその価値はまだ殆ど知られていなかった。もっとも北アメリカとヨ一ロッパヘ送られたグアノのサンプルは,アメリカとイギリスの一部の新聞にその評判記を書かせ,また1832年にはボルチモアヘ,そして三年後にはイギリスヘ,若干のグアノが販売用に送られたが,国際的な商品取引は1840年以前にはまだなかった。

グアノラッシュの幕開け

 1838年頃,二人のペルーの実業家が知人をつてにグアノのサンプルをリバプールに送り,農家にその効果を試してもらうように依頼した。ところがその効き目は大変すばらしかったので,リバプールのMyers商会はもっと多くのサンプルを送るように要求し,さらにくわしい試験をした。その結果,グアノの肥効は在来の厩肥よりはるかに優れていることが明らかになった。そこでMyers商会はグアノでひと儲けしようともくろんで,買い付けることを申し出た。

 1840年,リマ在住の実業家でMyers商会とも関係のあったDon Fransisco Quirosは,ペル一政府から6年間のグアノの採掘,輸出の独占権を12,000ドルで買い取った。彼は1840年と1841年の2年間に,22隻(内19隻はイギリス向け)の船で8,000トンのグアノを輸出した。リバプールのMyers商会はトン当たり90ドルの卸値で売り捌き,採掘と運送の実費トン30ドルを差引いてMyersとQuirosはトン当たり60ドル,全部で50万ドルの利益を得た。

 グアノの評判はまたたくまにヨーロッパ全土に広まった。その頃イギリス船Dyson号がペル一向けの石炭を積んで入港し,イギリスではグアノがトン当たり140ドルで小売りされているとの情報をもたらした。このような情勢下,ペル一大統領Menendezは1840年に結んだQuirosとの契約を破棄し,グアノ資源の国有化に踏み切った。

 1842年2月,政府,Quiros,Gibbs Crawley & Co. ,(London,Gibbs商会の在リマ子会社)などからなる合同企業が設立され,共同出資者からの20万ペソの前払い金に対して,政府は向こう5年間の輸出独占権を与えた。さらに1847年からはGibbsがイギリス及び北米の,またパリのMichel Montane & CO. ,がヨーロッパ大陸のグアノの輸出独占権を継承し,以後40年間にわたってペルーは外貨の大部分をグアノで稼ぐことになる。

 当初ペルーグアノの売り込み先はヨーロッパに限られていた。Gibbsはイギリスのグアノ需要にさえ,十分応じ切れていなかったからである。しかし1842年突然Gibbsの競争相手が現れた。同じリバプールのAndrew Livingstoneなる人物が,アフリカのIchaboe島(アフリカ南西海岸沖の小さい岩礁)から低品位のグアノをイギリス市場にトン35ドルでダンピングし始めた。そのためペルーグアノの価格もトン50ドルまで下落し,輸入量も1842年の14,000トンから1843年には10分の1の1,500トンに減少してしまった。

 イギリスの市場を荒らされたGibbsは,1843年に新しい市場を求めてグアノを積んだ一隻の船をボルチモアヘ送ったが,これがトン当たり150ドルという高値で売れた。これに力を得て,翌1844年さらに2隻の船で700トンのグアノをボルチモアとニューヨークの代理人のもとに送ったが,これもすぐに売れてしまった。グアノを購入したのは主に南部の農場主で,ヴァージニヤのタバコ栽培者やサウスカロナイナの綿栽培者はグアノ施肥によって巨利を得,たちまち「グアノ教信者」になった。

 イギリス植民地時代,アメリカの農民は処女地のもつ肥沃度に安住して,収奪的な農業を続けていた。その結果土地生産性は次第に低下していった。たとえば肥沃だったニューヨークのGenesse Valleyの穀物収量は,独立戦争勃発時の1775年にはエーカーあたり30ブッシェルもあったが,70年後の1845年には僅か8ブッシェルになってしまった。このような生産性の低下は,養分収奪性の大きいタバコや綿において特に著しかった。このようなときまさに救世主としてグアノが現れたのであった。

 これがアメリカにおけるグアノラッシュの幕開けである。

References

1)R. P. マルソーフ著 市場泰男訳:塩の世界史 平凡社 1989

2)S. W. ミンツ著 川北稔・和田光弘訳:甘さと権力-砂糖が語る近代史 平凡社 1988

3)高橋英一:
 *ジョン ベネット ロウズとロザムステッドにおける長期圃場試験-その今日的意義について 1-3,農業及び園芸,69,1159,1269,70,455(1944,1945)
 *ベネット ロウズ 小伝 1-4,農業及び園芸,71,443,588,680,767(1996)
 *John Bennet LawesとRothamsted試験場 農業近代化へのGentleman Farmerの貢献 京都産業大学国土利用開発研究所 紀要 21号 33-58(2000)

4)Jimmy M. Skaggs:
 *Broadcloth and Britches:The Santa Fe Trade
 *The Cattle-Trailing Industry:Between Supply and Demand,1866-1890
 *Clipperton:A History of Island the World Forget
 *Prime Cut:Livestock Raising and Meatpacking in the United States,1607-1983

 

 

被覆肥料を用いたピーマンの
育苗ポット内全量基肥技術の確立

長野県南信農業試験場 環境部
研究員 宮下 純

 環境保全型農業推進の中で施肥量の削減が求められている。肥料の利用率を高めて減肥を達成するためには,局所施肥法や肥効調節型肥料を用いた施肥が有効である。水稲や葉菜類では,局所施肥機の開発によりすでに実用化されている。

 しかし,施肥量の多い果菜類では集約的で機械導入が困難なため研究事例は少ない。そこで水稲育苗箱全量基肥施肥法を参考にして,減肥を目標としつつ,省力的で新たな機械や設備投資を必要としない施肥法として露地ピーマンの育苗ポット内全量基肥施肥法について検討した。

1.本施肥法の概要

 三要素が含有され,初期溶出抑制型であるスーパーロングを用いて,ピーマン小苗の鉢上げ時に本圃生育に必要な成分量を育苗培土と混合し通常の育苗を行う(図1,写真1)。この苗を土づくりした本圃ヘ定植すれば,本圃への施肥は省略でき,かつ減肥が達成できる。

2.試験の経過

 1996年から98年の3年間,試験場内圃場において試験を実施した。品種は「京波」を用い,肥料は主として140日タイプのスーパーロング424(14-12-14)を供試した。

 耕種概要は1996年を例にとると,3月27日播種,4月19日鉢上げ・ポット施肥,6月4日育苗終了・定植,収穫打ち切り10月15日であり,他の2年もほぼ同様の時期である。

3.育苗時の特徴

 育苗培土は慣行のものが使用でき,育苗管理も通常と変わらない。ただし,ピーマンは鉢上げから定植までの育苗期間が長いので,スーパーロングからの溶出が多少有り(図2),その影響を受けて苗の生育は旺盛~過剰になりやすい(表1)。しかし,定植する上での問題はなく,むしろ本圃での初期生育は良好となる(写真2)。

 ただし,葉が広がり育苗面積を多く必要とするので,それを避けて慣行程度の苗の大きさにするためには育苗培土中の速効性窒素を慣行量の3分の1程度に減量すれば可能である。

 育苗ポットの大きさは,4号(12cm)あるいは3号(9cm)が適当であったが,それより小さいものは容量が少なすぎて本圃に必要な肥料全量を混合することはできない。

 また,ポット内の肥料の割合が多くなり過ぎると肥料成分の溶出のほかに,通常よりも保水性が低下する。この場合かん水回数を多くするか,保水性の高い培土資材を使う必要がある。

 このようにいくつかの留意点はあるが,果菜類の育苗は,水稲のような全国統一された育苗箱による育苗方法はなく,途中の鉢替え時期などは農家や地域によりさまざまである。現場への導入に当たっては,育苗段階でのチェックが必要であろう。

image

4.本圃での収量と窒素吸収

 定植後は,根に近い場所から徐々に肥料成分が溶出するので肥料の利用率が高くなり減肥が可能となる。

 生育の特徴は,定植後の根の伸長を待たずに肥料成分吸収が行われるため,慣行区に比べ初期生育が良好で前半の良品収量が多い反面,9月中旬以降の地温下降期では,追肥を行う慣行区に比べやや果実肥大速度が劣る傾向がみられた(図3)。

 慣行窒素施肥量(40kgN/10a)に対して25%減肥しても窒素吸収量は同等に維持され,初期生育が良好なため収量は同等以上の結果が得られた。一方,50%減肥すると施肥窒素利用率は高まるが,窒素総吸収量は慣行区より少なくなった。したがって,気象や圃場条件により,同等の収量が得られる場合もあるが,減収する場合もあった。(図4,5,表3)

 なお,本施肥法による尻腐れ果等の障害果発生はみられなかった。

 以上により,本施肥法は本圃への施肥の省略と25%程度の窒素減肥が可能と判断された。また,三要素入りの肥料を使うため,水稲などの被覆尿素を用いる施肥法に比べ,リン酸やカリの別途施肥の必要もない。なお,収穫予定期間に応じて肥料の溶出タイプ(溶出日数)を選択する必要がある。

5.跡地土壌のクリーン化

 環境負荷の面では,肥料の利用率向上による投入量の削減のほかに,特に野菜では跡地土壌の残存窒素が大きく問題視される。

 ピーマンの収穫残さは通常手で抜き取って片付けるが,そのとき茎葉部とともに根鉢部分がほとんど回収できる。根鉢部分に残された肥料粒も圃場外ヘ持ち出すことがこの施肥法で可能であり,環境負荷軽減への貢献度が高いと考えられる。また,次作の施肥設計も比較的容易となる。

6.ピーマン以外の果菜類への適用

 スーパーロングを用いた全量基肥ポット施肥法をピーマン以外に夏越しのトマト,キュウリにも試してみた。これらの果菜類は育苗日数がピーマンより短いため,育苗上の問題が無く,定植後の初期生育も良好であった。

 しかし,このポット施肥法に限らず全量基肥法全般にいえることだが,生育中期以降の施肥による樹勢コントロールができないため,適正樹勢維持を重点とするトマトやキュウリについては,本施肥法の現時点での適用は難しいと判断している。

7.残された問題

 ピーマンは局所施肥しても肥料の利用率の大幅な向上は達成できなかった。原因として,地力窒素の依存度が高いことと慣行区でも被覆尿素入りのBB肥料を用いていることが挙げられる。

 実際の窒素減肥率は土づくりや施肥の来歴等を加味した地力窒素の評価法を確立し,圃場ごとに決定する必要がある。また,土づくりに施用した有機物の肥効把握も必要となろう。

 今回の試験は,三要素入りの肥効調節型肥料を用いたものの窒素減肥だけに着目して行った。局所施肥によりリン酸やカリの利用率も高まり,それらを減肥できる可能性があるので今後検討の必要がある。また,生育に対応したより良い溶出パターンの新しい肥料開発にも期待したい。

 

 

伝承民謡を育てた風土と農民歴
(八尾町と越中おわら節)

八尾町農業協同組合 副組合長理事
八尾町文化協会理事長
宮本 壽夫

Introduction

 日本全国に民謡のふるさとと呼ばれる所が各所にある。東北地方がそれであり,九州や沖縄にも秀れた民謡が多く伝承されている。越中と呼ばれる富山県も民謡の数と質では他県に遅れを取らない。多くのすぐれた民謡は労働の哀歌を歌い上げ歌い続けたものである。古くから農業を生業として営んできた富山の風土には当然として農にかかわる民謡が数多くあり,季節に関わる歌詞も多い。

2.八尾町での農業の年中行事

(1)若木と若水

 若木は大みそかに,近くの山で樵り,束ねて,元日の囲炉裏で用いた。若水は元日の早朝,井戸や湧水から汲み上げて雑煮などの煮炊きに用いた。若木の焚き火にあたり,若水で煮炊きした物を食べると何時迄も若さが保たれると言い伝えられた。

 元旦に鶴(釣る)の声するあの井戸の音
 亀(瓶)に汲みこむオワラ若の水
 (おわら歌詞)

(2)仕事始め

 一月二日の朝は仕事始めとして農家の男たちは藁を打ち縄をない,草履や草鞋を作って仕事始めとした。勤勉が尊ばれたころの厳しくも懐かしい風習である。

(3)七草粥

 セリ,ナズナ,ゴギョウ,ハコベ,ホトケノザ,スズナ(かぶ)スズシロ(大根)が春の七草と言われたが,積雪の多い八尾の里では越冬野菜の大根や蕪や白菜などを一月七日の朝,細かく刻み餅と米を入れて炊いて,一年の健康を祈願して食べた。

(4)田植え正月(小豆粥)

 一月十五日は鏡餅を焼いて小豆粥の中にいれ豊年を祈った。その時八尾ではくず米を挽いた粉で作った団子を一緒に炊いて食べた。稲株が大きくなるとげんをかついで,団子は大きめに作った。また「ぬるでの木」で箸を作り稲穂になぞらえて花箸に仕上げて団子を食べた。

(5)初午

 二月初めの午の日を初午といい養蚕が盛んであった八尾ではマユの形の団子を作り,蚕の神に供えて良いマユが取れることを祈った。

(6)彼岸中日

 春と秋の彼岸の中日(春分の日,秋分の日)は地獄の釜も休みの日と称して,農家はどんなに忙しくても仕事を休み先祖の霊を祀った。

(7)春祭

 春祭は村に病気や災難がないように,また秋の豊作を祈って多くの集落では獅子舞を奉納して祈った。

(8)五月(さつき)

 早苗を田に植える月だから早月と呼ぶといわれるが,ほかにも皐月,妬月,悪月,田苗月,稲苗月とさまざまな名称をもつ。「秋と五月と二度さえなけりゃ憎い嫁など何で貰お」と俚謡にあるが,角のない牛として専ら労働力として娶られた農家の嫁の哀れさも残る呼称でもある田植月。

(9)田祭り

 作業の全てが機械化された今日の農業は田植えの最盛期はゴールデンウィークと,一ヶ月も早くなったが,牛馬で耕し,全てを人手で植えた頃は田植えの終るのは六月上旬であった。田祭りは「やすごと」とも呼び,餅(笹餅やぼた餅)を搗き,御馳走を作って一日を家族そろってくつろいだ。

(10)養蚕

 八尾町の山手の農家ではほとんどの家で蚕を養った。収穫期により夏蚕・秋蚕と呼んだ。このほか晩秋の楮の刈り取りから始まり三冬をかけて漉く和紙つくりや,同じく稲の取り入れが終ると同時に始まる薪炭生産も山間部に住む人達にとって辛いが生活の代を得るための大切な作業であった。

(11)地蔵祭

 八尾町では八月六,七日に催される聖徳太子の太子伝(太子様祭り)と平行して行われ,町や村の石地蔵や地蔵堂の前に小屋形の台を作り,子供らが中心になって提灯をつけ,種々の飾りを施し,菓子や果物を供え,通りかかる人々は「御焼香願います」と鐘を叩いて張り上げる子供たちの声に応えて浄財を寄進した。僧侶が来てお経を上げて帰り,終ってから子供達は供え物を配分して,楽しみを分かち合うのであった。

(12)盆踊り

 八尾町でのお盆休みは八月の十四,十五,十六日のいわゆる旧盆であった。この日には他家ヘ嫁いでいる娘たちや,他県で働く子弟が帰省して久しぶりに母親の手料理を食べて文字通り水入らずの時間をすごした。また夜は神社や寺の境内,或いは小学校の運動場などで踊りの舞台が立ち,会場ごとに特色ある民謡で踊りあかし,若者たちの良き社交場となった。

(13)風の盆

 台風が襲来し古来厄日とされて来たいわゆる二百十日(九月一日,立春から数えて二百十日目となるのでこのように呼ぶ)から三日三晩八尾の町を上げて踊りあかす風の盆の起因は,今を去る三百六十四年前の寛永十三年に加賀藩主前田利常の許可を得て開町した八尾町建の書類が,その後わけ有って町外に持ち去られ,六十六年後の元禄十五年,町の役人衆が奇計をもって取り戻したことを祝い,三日三晩,町民が町内をおもしろおかしく踊り練り回った。

 これが発端となり太鼓,三味線,胡弓を奏で唄い手,囃子方と手拍子で調子をとって踊りにぎわい,やがて富山藩がお盆三日間の町流しを許可した。当初は現在のおわら節のほか,おきんさ(越後おけさのなまり)松坂節,糸引き節,浄瑠璃,常盤津などもまじえて歌いあるき踊りあるいた。

 身なりは男女とも編笠をかぶり男子はおもに布法衣を着ていたといわれる。女子は山繭ちりめんなどの派手な浴衣を着,その上に絹織の袖無しや半纏をまとい,足に白足袋,手に赤絵の扇子を持って踊った。やがて明治六年ころから新暦採用を期に,お盆三日間の踊りは現在のように九月一日から三日までの「風の盆」に踊られることとなった。

 当時,おわら節の同好者はたびたび「遊び宿」に集まり,町には百丁を超える三味線があり,三味線をひけぬものは一人もいないとまで言われた。

 風の盆が近づくと富山の丹波屋,針田屋など二十人余の皮張り職人が,会場となる聞名寺の付近に宿をとって,毎日のように皮を張り替えた。

 職人らは,三味線を鳴らしてみて,音色が悪いとただちにバチで破り,張り直した。三味線は猫の皮が最良とされ,妙手のものはこれを張ったが,今は猫の皮が払底して,多くは犬の皮である。

 当時のおわら節は三拍子であり,婦女子などの糸引き唄として,右手に釜中に煮た繭糸を引き,左手でわくを回しながらの作業唄でもあった。

 この風景は坂の町八尾では昭和の初期までみられ,現在も歌い継がれているおわらの歌詞に残っている。

(14)稲刈り

 曾ては台風の訪れる前に収穫を終えようとして,富山は早稲の作付けが多かった。八尾町もその例に漏れず八月末から九月初めが稲刈りの最盛期であった。良質米指向が強くなった今日,水稲の作付けの大半は銘柄米のコシヒカリとなったが,機械化の進歩により植付け期が大幅に早まり,九月中旬には稲刈りは峠を越す。稲刈りが手作業の頃は,乾燥も天日乾燥のみで天候の良い時の地干しと稲架干しがあった。現在はコンバインで,刈り取り即脱穀で籾となり,火力乾燥機の場合は翌日すでに玄米となって出荷される。

(15)秋祭り

 農作業が機械化されない時代の秋祭りは,八尾町では早稲の取り入れ直前もしくは初期に行われた。然し最近では収穫を完了して心身ともにくつろぐ十月におこなわれる集落が多い。春,秋共に親類や嫁いだ娘や孫まで呼んで,互いに馳走したものであったが,近年は氏神様での神主の儀式が終るとあとは家族だけのいわゆる内輪祭りとなり,それも少子高齢化の昨今,名ばかりの寂しい祭りとなった。

3.越中おわら節

 越中おわら節の起こりを論ずるとき常に語られるのが八尾町建ての書類取り戻しの史実である。

 この町建ての秘文書は,貂の皮に包んで,皮包みの止めを鷹の爪で止めるように作ってあったものだろうと想像される。後世「貂の皮」とか「鷹の爪」と呼称する重用書類包みの別称が伝声している所以である。そしてこの「貂の皮」は瀬戸屋,葛原屋,吉友屋,紺屋の四家を四年に一年,毎年持ち回り,もし此れを披見したときは,天罰が下ってそのものの家が潰れるか,大きな不幸があると口伝されていた。

 廻り盆は前述のように,元禄十五年に始まり,爾来絶えず行われて来た。昭和以前で最も全盛を極めたのは,天保年間から明治初年頃までといわれ,それらは大抵男女混淆であり,女子は数人一緒に声を揃えて唄い,男子はそれぞれ三味線,太鼓,胡弓,手拍子などでその唄に和し,どんな家庭の婦女子でも盆三日間だけは踊り廻ることをゆるされていた。

 元禄に始まる八尾の廻り盆は年を経るにしたがい隆盛を極めたが,唄う謡は十人十色で様々のものがあり,誠に聞き苦しい点もあった。のち文化九年の秋,遊芸の達人とも云われた宮腰屋半四郎茶屋新助,石戸屋源右衛門らが申し合わせ,いまのおわら節を新作したと伝えられる。そのとき,様々の滑稽な変装をして,新作の歌を謡いながら町内を練り廻り,おわらいという語を歌中にさしはさんだので,おわら節というとも伝える。

 くだって嘉永及び安政の頃からいつしかおわらと謡うようになったと云うが,小原と云う地名に関わるとも云い,豊年万作の大藁節の省略とも云い諸説があってさだかではないが,今やおわらはその名称の起因を論ずるよりも,草深く,雪深い八尾に生まれ,ここに営んだ祖たちが,風の声,水の音,土の声,そして鳥の声,虫の声のなかから歌い上げ,限りない歴史の中を切瑳琢磨して生き残ったひとつの調べ。生活の苦楽,愛の悲喜,風雪に耐える厳しさと美しさ,そのあらゆる情感をためらいなく,唄う自由の讃歌。明日への希望に生きる勇気の歌。誇張と慢心を抑制して,素朴に唄い継ぎ舞い次ぐ博愛に満ちた仁の歌。

 おわら節の起源の不明こそ,その永い伝統を物語るものであり,今日より明日へと静かに深く大衆のこころの底に育まれながら変り行く未来に対しても不明の歌。八尾に生まれ育ったおわら節は,これからも越中に育ち全国の人々に愛され世界に調べを育てられて永遠に生きて行くであろう。

4.農の営みから芽生えたおわら歌詞

春の歌

 来たる春風氷が解けるうれしや気ままにオワラ開く梅
 おらっちゃ小さい時ァ菜種の花よ盛り過ぎればオワラチラバラと
 紅だすき田植しようとて水田に立てば可愛い燕がオワラ行き戻り

夏の歌

 春蚕 夏蚕も揃うて良うて盆が待たれるあねいもうと
 汗の野良着をゆかたに着替え嫁も踊りのオワラ輪に交じる
 そっと打たんせおわらの太鼓 米も成る木のオワラ花が散る

秋の歌

 山の畠に二人で蒔いたそばも花咲くオワラ風の盆
 二百十日に風さえ吹かにゃ早稲の米食てオワラ踊ります
 虫の声やら砧のひびき里は月夜のオワラ芋の秋

冬の歌

 八尾山の町 軒なみごとに大根吊るしてオワラ冬が来るし
 紙を漉こうか楮を煮よか白木牛嶽オワラ雪もよい
 ほっとため息小枠を眺めこうも糸嵩オワラないものか

References

①八尾町史
②八尾町おわら資料館(展示資料)
③歳時記とやま
④富山県民謡採譜(著者黒坂富治)

写真提供

①八尾町商工観光課
②村杉ビデオ工房
③林印刷所

 

 

水稲における肥効調節型窒素肥料
全量越冬前施肥の効果

宮城県園芸試験場 環境部
研究員 佐藤 健司

Introduction

 水稲移植栽培において基肥肥料を越冬前に一回で施用することが可能であれば春期の作業軽減,省力施肥につながると考えられる。今回,宮城県の主力品種「ひとめぼれ」について肥効調節型窒素肥料を用いた,窒素肥料の越冬前施肥の効果を検討したので紹介する。

2. Testing Method

 試験は1998年,1999年の2ヶ年間,宮城県農業センター水田園場で行った。品種は「ひとめぼれ」で苗質は稚苗である。越冬前施肥には,LP100とLPS100の2種類の肥効調節型窒素肥料について検討した。試験区の構成を表1に示した。栽培条件は下記のとおりである。

栽培条件

1)移植時期:5月15日 5月11日(1999年)
2)栽植密度:22.5株/㎡(1998年),22.0株/㎡(1999年)
3)植付本数:4.6本/株(1998年),4.0本/株(1999年)
4)越冬前施肥時期:12月25日(1998年),12月3日(1999年)に施用。その後,耕起。
5)対照区の三要素及び越冬前施肥区の燐酸,加里は燐酸加里化成40号で春期施用(5月11日・1998年,5月6日・1999年)。

注1)幼穂形成期を幼形,減数分裂期を減分と略記した。
注2)LP100:LPS100は各肥料の施用量比率を示す。
注3)対象区の追肥NK化成で施用。

3. test results

(1)肥効調節型肥料の溶出

 12月に施肥した肥効調節型肥料の移植後の肥料溶出経過は春施用した場合に比較して溶出の立ち上がりが早く,積算溶出率は両タイプとも概ね幼穂形成期までが60%,穂揃期までが80%であった。また越冬前施肥時から代掻き時までの溶出率はLPS100が2%(98年),9% (99年)・LP100が15%(98年),18%(99年)であった(図1・98年データ省略)。なお98年12月における越冬前施肥時の作土5cm下の平均地温は概ね6℃以下であった(データ省略)。

(2)代掻き後の田面水の全窒素濃度

 越冬前施肥区は対照区に比較して明らかに低く稚移した(図2)。このことは,田植え時落水にともなう肥料窒素流亡の軽減につながると考えられる。

(3)作土中の無機態窒素

 越冬前施肥区の代掻き時の作土中の無機態窒素残存量はほとんどなく,溶出した窒素成分は有機化または流亡,脱窒したと考えられた。また6月中旬のアンモニア態窒素残存量は対照区に比較して少なく,6月下旬は,やや多い傾向があった(表2)。

(4)生育等

 越冬前施肥区は対照区に比較して初期茎数が少なく最高茎数も少ないが,有効茎歩合は高かった。穂数は対照区よりやや少なめであった。(施肥量を増肥した98年は対照区より多くなった)また,稈長は長めとなったが,倒伏に影響を及ぼす程度は小さかった。出穂期は対照区より2~4日遅れる傾向があった(表3)。

(5)稲体窒素吸収量

 越冬前施肥区の稲体窒素吸収量は幼穂形成期頃まで対照区を下回るが,その後の増加量が大きく,穂揃期以降は対照区を上回る,いわゆる秋優り的な吸収パターンとなった(図3)。成熟期の施肥窒素の利用率は,99年の肥効調節型窒素肥料でLP100のみを施用した越冬前施肥A区で62%,LPS100とLP100を1:1に配合した越冬前施肥B区で71%となり,速効性肥料を用いた追肥体系の対照区58%より高くなった。

(6)収量,収量構成要素,玄米品質等

 越冬前施肥区の㎡当たり籾数は1穂籾数の増加により対照区より多い傾向があった。収量は特に越冬前施肥B区で窒素施肥量を1割程度削減しても,対照区と同等となった。玄米の整粒歩合は,年次により差があるものの対照区と,ほぼ同等であった。玄米窒素濃度については,秋優り的な窒素吸収を反映し,やや高くなる場合もあるので,施肥量には十分注意する必要がある(表4)。

 以上の結果より,越冬前施肥には2種類の肥効調節型窒素肥料LPS100とLP100を1:1の割合で配合して施肥し,施肥窒素量は,慣行の速効性肥料を用いた基肥と2回の追肥の合計窒素量の概ね1割程度の減肥が適当と考えられた。

4.越冬前施肥にあたる注意点,今後の検討等

 越冬前施肥の生育の特徴として,初期生育量が慣行施肥より,やや小さく,中後期以降の生育量が多い,秋優り的な生育となる。したがって,平坦地域等,初期生育が良好な地域に適していると思われる。

 今回の試験では,窒素について越冬前施肥の効果を検討し,燐酸,加里については慣行と同様に春施用とした。春期の肥料散布の省力を図るには今後,燐酸,加里の越冬前施肥についても検討が必要であろう。また,施肥時期についても,本試験では12月以降の概ね地温が6℃を下回った時期に施肥した。10月頃等地温が高い時期の施肥は,移植時期までの肥効調節型肥料の溶出量が増加し,溶出パターンも変わる可能性があるので,施肥時期の検討も必要と思われる。

 肥効調節型肥料を用いた越冬前施肥の効果は,本試験の水稲移植栽培の他,水稲直播栽培や,園芸作物での検討事例もある。今後,各地域・作物に適した肥効調節型肥料の開発と施肥技術の研究が望まれる。